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蔵六のニユース

2022.07.12

信玄の願文と武田諸士の起請文

 信玄の願文と武田諸士の起請文
長野県上田市は「信州の鎌倉」といわれるほど歴史資料や史跡が多いところである。その一角鎮座する生島足島(いくしまたるしま)神社は、信濃の国でも指折の古社・大社である。武田信玄の崇敬が厚く、信玄はしばしば祈願をした。
同社には武田信玄が、上杉謙信との決戦に先立ち、近郷の豪族はもとより、自分の過信や弟たちまでにわたり、神の前で主家に忠誠を誓う起請文を書かせ、血判と花押を書き百通り以上の誓約祈願をさせている。これらの起請文はいつでも無料で拝見することができ、中世を知る資料として一見の価値がある。この起請文は、信玄といえども絶対的に部下、武将に信頼を持てなかった時代であったことを証明する貴重な資料である。血判状の中には一部かわったものもある。これを傘連判状といい、円形で放射状に外部に向かって連署しそれに血判をしているのである。これは主体となる人物が誰であるのかわかりにくくするための連判状であり、江戸時代まで利用されていたという。
そのころ、上杉謙信は上の荷出陣して、武田、北条の連合軍とも争っているが、北信濃の諸将で信玄に追われて謙信を頼っているものも多いので、信玄も部下諸将の結束を固めておく必要があったとみるべきであろう。一族から諸奉行以下の被官に至るまで起請文を書かせ、生島足島神社(下之郷大明神)に納め信玄に対して逆心謀叛を企てることのないこと。謙信以下の敵方に内通することがないこと。自分は信玄に忠節を尽くすという内容の起請文である。
起請文は八十三通であるが連署しているものが多いので、武士は二百三十七名に及ぶ。熊野牛王宝印の裏に署名して、花押し血判を加えている。
武田信玄の戦勝祈願文には、およそ次のようなことが記されている。

「謹んで下之郷諏訪大明神に申し上げます。私(信玄)は越後の軍勢(謙信)が攻めてくるので戦うのがよいかどうか卜(うらな)ったところ、吉という卦がでました。そこでこの天の教えに従って出陣します。なにとぞ私の軍に勝利を与えられ、長尾景虎(謙信)が逃亡するようお助けをお願いいたします。もし私が凱歌をあげて帰国しましたならば、今年から十ヶ年間、毎年青銅貨十?(さし)ずつ尾者のため奉納いたします。」
永禄二年 武田徳栄軒信玄 花押

永禄二年(一五五九)といえば川中島合戦があった二年前である。このころ晴信は信玄(法名)として改名している。(?(さし)=(穴あき銭百文を紐で通したものすなわち百文のことである。)
武田信廉の起請文 永禄十年(一五六七)八月七日、武田信廉は甲・信・西上州の武田配下の諸将とともに、生島足島神社神前で、信玄に対し逆心謀叛(むほん)のないことを起請文に認めている。
信廉(のぶかど)は信玄の弟で入道して信綱・逍遙軒といった。仏画・肖像画に優れ、武人画家として有名で、その遺作、父信虎像(甲府・大千寺蔵)、母大井夫人像(甲府・長禅寺蔵)は、現存する国指定の重要文化財である。
天正十年(一五八二)、武田氏滅亡のとき、織田氏のために、府中立石(甲府市・旧和田村)で殺された。『惣見記』には「…武田が親類・家老ノ面々落残ル者モ尋出サレ、或ハ生捕或ハ生害ナリ、其輩武田逍遙軒、同隆宝…」などとあり、武田一党のなかで信廉は筆頭に挙げられていた。兄信玄の死を世間に隠すため身代わりとなって病床に伏して医師の診察を受けたりしたという、影武者として逸話がのこされている。『甲陽軍鑑』には、「御親類衆 逍遙軒 八十騎」とある。
起請文(写真)の訓読は次の通りである。

敬って白す。起請文の事
一 この以前捧げ奉り候数通の誓詞、いよいよ相違致すべからざるの事
一 信玄様に対し奉り、逆心謀叛等相企つべからざるの事
一 長尾輝虎を初めとして、敵方より如何様の所得を以って申す旨候とも、同意致すべからざるの事
一 甲・信・西上野三ヶ国の諸卒、逆心を企つと雖(いえども)も、それがしにおいては無二に信玄様御前を守り奉り、忠節を抽(ぬき)んずべきの事
一 今度別して人数を催し、表裏なく、二途に渉らず、戦功を抽んずべきの旨、存じ定むべきの事
一 家中の者、或は甲州御前に悪しき儀、或は臆病の意見申し候とも、一切に同心致すべからざるのこと
右の条偽(いつわ)り候はば、上は梵天・帝釈・四大天王・閻魔法王・五道冥官・泰山府君・熊野三所大権現・住吉・日吉大明神・弓矢八幡・御?楯無・甲州一二三の大明神・飯縄・戸隠の大権現等の御罸をまかり蒙(こうむ)り、今生に於ては阿鼻無間に堕在致すべきものなり。仍って起請文件の如し。刑部少輔信廉 花押

武田刑部少輔信廉といっしょに起請文を収めた将士で姓名がわかっている者が二百十七名、八十三通にのぼっている。信玄の弟である信廉からも起請文を徴していたのである。六カ条の起請条項は、信玄に対し二心のないことを堅く誓わせたことに要約できる。
信玄の周辺にどのような不慮の事件が起きようとも家臣団が絶対に動揺しないための先手であった。信玄が長尾輝虎を表面に出したこの起請文を、川中島作戦に関係深い塩田下之郷明神(生島足島神社、摂社諏訪上下大明神)に納めたことは、対越後戦の準備であろうと敵味方に思い込ませておき、その実は駿河進攻作戦の準備であったことは、やがて判明する。信玄の思慮深い作戦を垣間見る貴重な歴史資料である。
珍品、女性の花押 元亀四年(一五七二・天正元)武田信玄の武将で室賀信俊の妻「壱叶」と信俊の弟、経秀の妻「みかわ」が信玄の西上作戦に従った主人の無事を祈った願文である。
この年の四月十二日に信玄は死去しているが信俊は長篠城番を命ぜられ、三河長篠に篭城していた。壱叶・みかわは夫たちの身を心配して祈願文を捧げたものである。戦国時代の武将の妻の生きざまをうかがうことのできる数少ない資料であり、女性の花押は珍しい。

右敬申上、今度さん「三河」州なか志の「長篠」におひて室賀(信俊)被到篭状(城) さおひなく罷帰候て、偽法楽能を五三番神前ニ而可致之候 仍如件 壱叶(花押)
元亀四年八月十七日(みつのとの)
とり 三かわ(花押)

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