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2023.11.11

蔵六ニュース・・26号

 

蔵六ニュース・・26

■新しいハンコ屋さんは象牙にハード材とソフト材がある事を知っている方は少ないと思う。印材は昔はハード材であった。産出国が少なく品薄になりソフト材が使われるようになった。ハード材はザイール、中央アフリカ、ガボンなどである。

光沢がよく摩耗しにくく、浸透性も優れ、赤っぽく、透き通る感じである。印材としては最高の材質である。

今はソフト材しかないが、柔らかく、白っぽく、透明度はない、昭和30年頃の印相ブーム期から大量に使われてきた。ソフト材はタンザニア、モザンビーク、ザンビア、スーダン、ソマリア、南アフリカ等が産出国である。専門家として知識を持って欲しい。

お送りするDMにてもご案内をするが、象牙の天丸材、金丹材、銀丹材のハード材を甲州商人ドットコムに掲載をする予定だ。卸価格の80%引きの激安価格で提供する。ご活用して欲しい。新しい年を迎えての企画に使える!! と思う!!

 

 

■添付資料

象牙ハード材  水生地・上上・上材・天丸材・金丹・銀丹

数量限定材 価格等は甲州商人ドットコムに掲載予定

 

 

 

消費者はもうはんこは要らないんじゃないのという空気感があります。

以前お届けした竹田恒泰先生の書いたものを再度数回に分けて送信します。

この負の空気感を変える工夫をみんなでアイデアを考えませんか!!

3回目・・・

デジタルは本当に便利か?

押印廃止の流れは、河野氏の大臣就任前からあり、その流れを利用したのが電子決済を売りにするIT企業だった。『ハンコを押すために会社に出社した』とのキャッチコピーで話題となりこのフレーズは河野氏の就任後も繰り返しテレビなどで取り上げられた。そして瞬く間にハンコは悪者になった。

しかし、多くの会社員が押印だけのために出社しているというのは嘘である。押印自体は数ある業務の一つに過ぎず、押印だけの専門職など聞いたこともない。押印だけのために出社する人などいやしない。

 近年は社会全体でデジタル化が進みつつあるが、ハツキングの手口は実に巧妙になり、被害にあった人は相当数に上る。

警視庁の広報資料によると、平成三十年のサイバー犯罪の相談件数は十二万件以上で、相談しなかった被害者はその数十倍はいるものとみられる。

他方、たとえハンコが盗まれても、直ぐに改印すれば悪用されることは防げるため自分でリスクを管理することができる。

 今後、様々な手続きがデジタル化されるだろう。しかし、民間のデジタル認証は、当然利用料がかかることを考慮すると、ハンコを作った方が全体としては安上がりになることは間違いない。保護者が学校に提出する申請書類も原則デジタル化するそうだが、申請書類に親が署名して押印するのに何が不都合があるのだろうか。昨年、中学三年の生徒がスマホを使って教師のパソコンに侵入し、自分の成績を書き換えて書類送検された事例があった。

最近の若者にとって、親のパソコンを操作して学校に申請することくらい容易い。

しかも、デジタル認証が安全だというのは間違いである。

近年、知らないうちに個人情報が盗まれて、SNSなどが乗っ取られ、あるいは見覚えのないクレジットカードの請求を受ける人は多い。

大手企業から個人情報が流出したという報道も頻発している。

大企業のシステムもいとも簡単に破られてしまうものであるから、個人の情報管理など簡単に破られてしまうものなのである。他方、自分の実印が偽造されて悪用された経験がある人は、そういるものではない。

デジタル化が進んで、行政手続きの押印が廃止されるのはよいとしても、ハンコ文化そのものは便利なものであり、残すべき文化だと私は思う。

河野大臣は色紙に落款を捺してハンコ文化に寄り添う姿勢を見せたが、単なる罪滅ぼしのパフォーマンスにしか見えない。

落款を使う一般人は一パーセントにも満たない。

一部の特殊な人が使うハンコでは意味がない。

私が問題にしたいのは、日常生活で普通に用いてきたハンコは実が便利なものであるということである。

 

2023.11.11

蔵六ニュース・・26号

 

蔵六ニュース・・26

■新しいハンコ屋さんは象牙にハード材とソフト材がある事を知っている方は少ないと思う。印材は昔はハード材であった。産出国が少なく品薄になりソフト材が使われるようになった。ハード材はザイール、中央アフリカ、ガボンなどである。

光沢がよく摩耗しにくく、浸透性も優れ、赤っぽく、透き通る感じである。印材としては最高の材質である。

今はソフト材しかないが、柔らかく、白っぽく、透明度はない、昭和30年頃の印相ブーム期から大量に使われてきた。ソフト材はタンザニア、モザンビーク、ザンビア、スーダン、ソマリア、南アフリカ等が産出国である。専門家として知識を持って欲しい。

お送りするDMにてもご案内をするが、象牙の天丸材、金丹材、銀丹材のハード材を甲州商人ドットコムに掲載をする予定だ。卸価格の80%引きの激安価格で提供する。ご活用して欲しい。新しい年を迎えての企画に使える!! と思う!!

 

 

■添付資料

象牙ハード材  水生地・上上・上材・天丸材・金丹・銀丹

数量限定材 価格等は甲州商人ドットコムに掲載予定

 

 

 

消費者はもうはんこは要らないんじゃないのという空気感があります。

以前お届けした竹田恒泰先生の書いたものを再度数回に分けて送信します。

この負の空気感を変える工夫をみんなでアイデアを考えませんか!!

3回目・・・

デジタルは本当に便利か?

押印廃止の流れは、河野氏の大臣就任前からあり、その流れを利用したのが電子決済を売りにするIT企業だった。『ハンコを押すために会社に出社した』とのキャッチコピーで話題となりこのフレーズは河野氏の就任後も繰り返しテレビなどで取り上げられた。そして瞬く間にハンコは悪者になった。

しかし、多くの会社員が押印だけのために出社しているというのは嘘である。押印自体は数ある業務の一つに過ぎず、押印だけの専門職など聞いたこともない。押印だけのために出社する人などいやしない。

 近年は社会全体でデジタル化が進みつつあるが、ハツキングの手口は実に巧妙になり、被害にあった人は相当数に上る。

警視庁の広報資料によると、平成三十年のサイバー犯罪の相談件数は十二万件以上で、相談しなかった被害者はその数十倍はいるものとみられる。

他方、たとえハンコが盗まれても、直ぐに改印すれば悪用されることは防げるため自分でリスクを管理することができる。

 今後、様々な手続きがデジタル化されるだろう。しかし、民間のデジタル認証は、当然利用料がかかることを考慮すると、ハンコを作った方が全体としては安上がりになることは間違いない。保護者が学校に提出する申請書類も原則デジタル化するそうだが、申請書類に親が署名して押印するのに何が不都合があるのだろうか。昨年、中学三年の生徒がスマホを使って教師のパソコンに侵入し、自分の成績を書き換えて書類送検された事例があった。

最近の若者にとって、親のパソコンを操作して学校に申請することくらい容易い。

しかも、デジタル認証が安全だというのは間違いである。

近年、知らないうちに個人情報が盗まれて、SNSなどが乗っ取られ、あるいは見覚えのないクレジットカードの請求を受ける人は多い。

大手企業から個人情報が流出したという報道も頻発している。

大企業のシステムもいとも簡単に破られてしまうものであるから、個人の情報管理など簡単に破られてしまうものなのである。他方、自分の実印が偽造されて悪用された経験がある人は、そういるものではない。

デジタル化が進んで、行政手続きの押印が廃止されるのはよいとしても、ハンコ文化そのものは便利なものであり、残すべき文化だと私は思う。

河野大臣は色紙に落款を捺してハンコ文化に寄り添う姿勢を見せたが、単なる罪滅ぼしのパフォーマンスにしか見えない。

落款を使う一般人は一パーセントにも満たない。

一部の特殊な人が使うハンコでは意味がない。

私が問題にしたいのは、日常生活で普通に用いてきたハンコは実が便利なものであるということである。

 

2023.09.27

山梨県の印章業の発展

 山梨県印章業の発展
前述の通り印章王国山梨は、水晶研磨技術の発展と平行して著しく伸展するのである。明治二年(一八六九)国内の水晶原石の採掘が自由になると、同六年に着任した藤村紫朗県令(県知事)は殖産工業発展のため、同九年六月、甲府城跡に県立勧業試験場を創設し、推奨加工場併設。業界の発展に尽力した。受講生の一人、市川大門町の長田市太郎は成績優秀のため、研磨技術の先進国である清国(中国)へ半年間派遣され先進地の技術を習得し、明治十一年長田氏は家族とともに甲府へ移り、清国伝習水晶細工所を創設した。と文献にある。
明治初期より明治二十四年に至る間は印章店を明らかにする資料は少ない。その中で甲府市の南陽堂田草川印房が、同家の家計によって明らかになった。それによると創業は明治十年と記され、甲府市中央四丁目(旧柳町)の田草川印房の現当主田草川恵一は、その三代目である。
明治十八年(一八八五)出版の『山梨県甲府各家商業便覧』には、金、銀、水晶、版木、御印判師谷村貞七(号幽蘭)がただ一人掲載されている。
明治二十四年発行の『甲府市内商業評判』の中に、柳町一丁目・土屋松次郎、柳町二丁目田中清次郎の二名が出ているだけであるが、明治二十七年(一八九一)発行の広告「山梨繁昌明細記」には次の業者が連載されている。
甲府、柳町 南陽堂 八日町 玉潤堂 柳町 清玉堂 三日町 玉泉堂 寿町 精美堂 桜町 土屋宗幸 柳町 含章堂 柳町 玉曜堂 柳町 土屋友次郎 柳町 丹沢駒次郎 郡部・富里村 佐野加久太郎・西島村 修竹堂 身延町 三桝屋 五開村 望月儀助
右十四の印章業者が記載されている。
この明治二十七年の山梨繁昌明細記の中に掲載されている広告欄には、他の四‐五倍ぐらいのスペースをとり南陽堂田草川印房(店主田草川徳次郎)が大きく宣伝している。広告では、徳次郎は清国人から篆刻の刀法技術を修得し、金・銀・銅・鉄・玉石などの印材を使いお客さんの要望にこたえます。また、甲州産の水晶は緻密精工で他に真似の出来ないような彫刻をしますので倍旧の御用を仰せつけられたい。と宣伝している。また、「創設明治十年」とみえるので、この業界では最も古い印章店ではないかと思われる。
「広告」
創業明治十年 甲府市柳町
南陽銅 田草川徳次郎
○ 篆刻師
茅堂義、従来寅刻斯業に勉勵罷在候所、江湖諸氏ノ御愛顧ヲ蒙栄候段感謝ノ至リニ堪ヘス、爾後猶斬道ニ刻苦黽勉曽テ清国人ニ就キ親ク学ヒ得タル刀法ヲ以ッテ、金銀・銅・鐵・玉石等総テ御下命ニ隋ヒ、彫刻仕ルヘク候、就中等国産水晶ノ如キハ最モ緻密精工風韻雅致ヲ旨トシ、他人ノ模擬シ能ハサル様彫進仕候間、冀クハ倍旧御用向仰付ラレン?ヲ謹告。
(明治二十七年・『山梨繁晶明細記』より)
難解な字句を並べた広告文は、その時代を知る貴重な資料である。また、この『山梨繁昌明細記』の末尾に、日本橋大伝馬町三丁目刻師芦野楠山(本県出身の篆刻の大家)の名前が記されている。
これらの各種刊行物や、その他の広告、折込を利用した宣伝販売が国内にもぼつぼつ始まった時代と推測される。
このころ博覧会や共進会への作品の出品参加もあり、約束郵便による通信販売業も出現し、行商販売と、これらの努力により山梨のハンコは全国へ浸透普及していった。
県外の印章店も盛んに宣伝するようになった。大正時代の広告の一部を記載する。これは千葉県のもので広告のスローガンが面白い。
(1)大発展の広告活眼を開き活文を見たまふべし
(2)首とつり替の元素諸君必ず熟読したまふべし
(3)文意貫徹せば手の舞ひ足の踏むをしらざるべし
と三つのスローガンが購買力をかりたてている。
「大発展の広告活眼を開き活文を見たまふべし」
大正三年
出張営業所開設広告 祥雲堂謹白
  月
出張営業所開設広告 祥雲堂謹白
◎幣舗印刻、業明治十八年中開店以来其我ヲ選ビ其裂ヲ精ウシ且ツ其成工ノ期日ヲ愆ラザルトニ因リ諸彦ノ愛顧ヲ辱ラシ陸続貴囑ヲ蒙ルニ至ル然ルニ遠隔ノ地ヨリ御注文ノ節態々御来臨ニナルモ事故アリテ即時ノ後需要ニ應ジ兼候事往々コレアリ實ニ幣家ノ常ニ憾ミトスル所ナリ因テ今回鶴舞町ニ於テ毎月一六ノ日出張営業致シ諸君ノ便宜ヲ謀ラントス請フ遠近ノ貴客倍舊ノ光顧ヲ垂レタマヒ陸続御注文アランコトヲ希望ス
○方今本朝古印體ナルモノ盛ニ行ハレ官私共ニ之ヲ称用ス然レドモ作家多クハ古印ノ典型ヲ講究セズシテ従ラニ変怪ハカリカタキ漫?ノ迹ヲ?シテ以テ古體を得タリスルハ豈概嘆ニ堪エザランヤ今ニシテ之レヲ矯正セズンバ終ニ俗戯ニ墜チントス弊堂斯ニ感アリ因テ木朝古印體ナルモノヲ?して華客ノ展覧ニ供ス
○仰印章ノ要タルヤ精確ナラザレバ信用ヲ示スノ具トナスニ足ラズ今ヤ我邦萬般ノ技芸日ニ將ニ美術の聲月ニ盛ニシテ朝野ヲ論ゼズ貴賤共に高尚優美ノ風ニ做ヘリ誰カ拙刻?悪ノ印章ヲ用ユル?ヲ欲セザラン夫レ實印ハ財産保護ノ要具ニシテ苟モ家産ヲ有スル者ニハ最貴重ナル必需品ナリ然ルヲ六書ノ義ヲ解セズ篆法章法刀法ヲ?ゼザル庸工ノ手ニ一任シ設令ヒ誤字錯篆アルモ恬トシテ顧ミザルハ豈浩嘆ニ耐ユベケンヤ是レ實印ノ貴重ナル所以ヲ解セザルナリ江湖ノ君子實印ノ貴重スヘキ所以ヲ諒ニセヨ
印譜例(略)
受堂例(略)
○御注文ノ節物品代金ノ半額以上申受候事
弊堂ノ製品ハ他店ヨリハ高価ナレドモ彫刻ノ美ハ勿論誓テ華客ニ満足ヲ呈セン?ヲ期ス
以下略
祥雲堂印房 篆刻士 阿部芳蔵
広 告(明治三十四年七月発行の「峡中文学」第七号の誌上)
国産水晶印美術彫刻
風雅精巧高尚優美真に美術の名に恥ざらんことを期す
字体 篆隷楷行草及古印体の? 御望次第
刻科 壱文字に付金三拾銭以上金壱円以下御望次第
注文 前金又は代金引換小包なれば見積金の半額を前払とす
印材 一個に付き認印金三拾銭以上金壱円まで
実印金五拾銭以上金弐円まで
為替 は甲府局払渡の事
弊堂は明治維新前より開業継続する所にして幸い四方諸彦の眷顧を蒙り日に月に隆盛に赴き候段感謝の至りに候、依って自分益々励精刻料印材共々に価を軽減し以て其思遇に報いんとす 希くは倍旧御懇命あらんことを 「謹白」
注・主に地方で発行される文学雑誌を利用した宣伝広告である。右は国華堂篆刻師山田白峰の広告である。

2023.09.13

石類の篆刻

 石類の篆刻
文久年間(一八六いち~三)より以来八十有余年続けられてきた手彫りの技術は、昭和の初期までは印刀と小槌を使っての篆刻であった。この作業は能率的にも低く、一日十五、六字くらいの篆刻で認印に仕上げて七、八本というところであった。昭和元年(一九二六)、甲府の原正が電気篆刻機を発明し改良を重ねて印刀を打つ小槌を電動式としては今までの手彫りより約三倍以上の能率を上げることに成功し、篆刻業者によろこばれ、量産体制を整えたのであるが何といっても昭和六年(一九三一)に山梨水晶株式会社社長、米沢良知が五馬力の水晶墳砂篆刻機を完成したことは、  石類篆刻に新紀元を画し、業界を驚倒させることになった。
このように米沢が山梨の印章業界へ黎明をもたらした。しかもこの墳砂式篆刻機は米沢個人が独占することなく特許権を確保しなかったことは執筆すべきである。米沢はこの公開により山梨の印章業界を救い、水晶印の普及を広め、販路を国内から国外まで拡大したのである。米沢良知は忘れることのできない業界の恩人であり、救世主でもあった

2023.09.03

蔵六ニュース・・19号

 

■ハンコヤドットコムの数字を見ると大したものだと思う。長い間、技術を磨き、朝から晩まで働いて年間売り上げ1000万円もあればというハンコ屋の世界を長い間見てきました。日本の最大手の小売店舗でも目標20億円という数字を見てきた事から言えば、流通がネットの世界になり、ハンコヤドットコムの売り上げ30億円、売上原価14億円、管理費11億円の数字で身売り、ラクスルという会社の完全子会社になり、どう変化していくのか見つめていくしかない。

株を売りませんかという話があったので売る事にした。買い付け価格は951円である。いろんなところから情報をいただく中で、外資系から敵対的な株の買い占めがあり、ホワイト騎士としてラクスルというような話も出てきたとか、創業者には40億円の金が入るとか・・・・確かではないがいろんなところから情報が届く。

まあ、金を抱いて死んでいくのもあほらしいと思うしかない。

証券会社よりハンコヤドットコムの資料が届いています。最後の資料と思いますが、見たい方にはFAXします。

 

 

■ラクスルの持つノウハウは、いろいろの印刷ノウハウシステムでもある。いろいろの印刷システムをもつ業者を仲間にして、消費者からの注文を全国の仲間の印刷業者に振り分けるノウハウも持つ。こんな仕組みを構築して大きくなった会社と理解している、そして、幾つかの会社を吸収して大きくしてもいる、ハンコ屋ドットコムの買収はそんな中で行われたと推察する。

 

■じあ、皆さんはこんな会社にどう太刀打ちしていくのかという課題が生じる。まあ、しょうがないんで何もしないでいる事も一つである。しかし、ラスクルと同じような印刷のノウハウを提供できる会社があるとしたら、皆様はこの会社のノウハウを利用したいと思うなら、モテギが人肌脱ごう!! こうご期待!! 

 

 

 

■添付資料

白丸10000本セット、お客様閉店の為の処理品です。

あまり丁寧に使用されていなかったようです。

価格は、皆様が付けてください。

送料は実費ご負担にてお願いします。

 

■添付資料

つげ12ミリ丸 印相 500セット

古いものなので日焼けもあるかもしれません。

状態はいいです。

価格は皆様がつけてください。

送料は実費ご負担にてお願いします。

 

■添付資料

韓国製の青磁の壺、1個倉庫からでてきました。皆様の店舗に置いてみませんか!! 価格は皆様がつけてください。高さ65センチ 上の円は27センチ位です。

送料は実費ご負担にてお願いします。

 

■添付資料

木額 31×22サイズ 希望価格15000

価格交渉可能!!

2023.08.10

蔵六ニュース・・16号

 

蔵六ニュース・・第16

■SDGsへの取り組みに皆様は関心がありますか?

過日、地元の山梨日々新聞社から取材を受けました。

今日は、その記事を添付いたします。希望者にはデーター送ります。

モテギでは昨年SDGsへはんこ屋さんとしてどう取り組んだらいいのかというテーマを皆様に提案をさせていただきました。

記事を読んでいただき、今からでも遅くないのでSDGsへの取り組みを始めましょう!!

 

14号にて過日のハンコ議連の一部の問題点の資料を送りました。

当日の総会の次第等 当日配布された資料はPDFにて中谷事務所よりいただきました。資料のご希望者はh-motegi@motegi-kk.com

へお申し込みください。

 

 

■印章:刻まれてきた歴史と文化

5.庶民・女性の印

前回まで奴国王や戦国大名武田氏らの支配者が用いた印章、高芙蓉や野口小蘋ら文化人 による印章の制作・使用などを紹介し、印章の多様な歴史を垣間見てきた。ただし、誰も が印章を使い、はんこ社会とも呼べる現代日本の印章文化のルーツは、それだけで説明の つくものではない。はんこ社会の前提としては、庶民にまで印章の使用が広がった江戸時 代が重要である。 全国的にみた庶民による印章の使用は、戦国時代終わり頃(1590年代)から始まり、 寛永年間(1624~44)に定着していくと考えられている。 では、甲斐国の場合はどうだろうか?と思い、博物館の収蔵資料を探してみたところ、 最も古いもので寛永2年(1625)の資料を見出すことができた。高畑村(甲府市)の 佐兵衛らが署名の下に押印している。 この資料を皮切りに、庶民が押印した文書は確かに多くなっている。しかし、17世紀 代の資料には、押印以外にも花押や略押(花押を簡略化したもの)、拇印や爪印(指先に朱 や墨をつけて署名に押すもの)など、様々な方法が用いられている。 当時、印章を使うのは家主となる男性だけで、家主以外の男性や女性は印章を持たなか った。これは法的な責任をもつ主体が、家主の男性に限られていたことを示している。家 主の男性が死去して後家の女性が押印を行う場合にも、夫の印章を使ったり、他の方法で 押印に代えたりしていた。 女性による押印の代用方法として注目されるものが「紅判」だ。これは化粧に用いる紅 を指先につけ、署名の下に押したものである。写真は寛文8年(1668)、甲府町年寄を 務める坂田家において、財産相続に関する取り決めを行った文書である。5名の署名があ り、男性2名は花押と印章を使い、おるう・おへま・おせんの女性3名が、署名の下に紅 判を押している。紅判は甲斐国以外ではあまり例をみない、大変珍しい事例と考えられて いる。 ただし、現在確認されている紅判の事例は少なく、使われた時期や地域、使用した女性 の階層など、解明されていない部分も多い。今後、さらなる資料の発見や研究の進展が待 たれる。 江戸時代の庶民による印章の使用は、法的な責任能力を認められた家主の男性に限られ ていた。一方で書類にサイン・押印する機会は、家主以外の人々にも生じており、それは 女性も例外ではなかった。このことが、誰もがはんこを使用する社会の下地になったもの と考えられる。

2023.01.05

山梨の水晶産地

 山梨の水晶産地
甲斐の水晶といえば、連想されるのが金峰山であろう。山梨の水晶産地は主に金峰山を中心とする関東山地と証する地域に集中している。甲府市北部から遠く武・信・上の三州にわたる広大な地域を占め、その最高点は金峰山(二五九五メートル)で朝日岳、甲武信岳等の二五〇〇メートル以上の高峰によって信・武と境をなし、笠取山から南走して甲府盆地の塩山に終わる支脈で国師岳から南西走して甲府市に終わる支脈。この間の谷間は笛吹川、金峰山より南西走するものは、茅ヶ岳とその裾野の竜王で終わる。この脈間に荒川を画し、御岳昇仙峡の絶景をつくり、花崗岩風景をあらわ露す。
金峰山より主脈は西走して横尾山に至り、一支脈の西南に派出するものがある。前支脈との間に塩川を涵養する。このように金峰山を中心にして集中しているのであり中でも甲府市黒平の向山坑から東山梨郡牧丘町の倉沢抗(乙女鉱山)、須玉町比志の押し出し抗は古くから透明良質の水晶を多く産出している。
金峰山麓での水晶の発見は天正三年(一五七五)で、今より約四百年前のことで、ちょうど武田勝頼が三河の設楽原(しだらがはら)で織田、徳川の連合軍に大敗した年であり、武田家滅亡の第一歩を踏み出したいわゆる長篠の戦いのあった年である。
伝承によれば水晶を発見したのは険しい山道を金峰山奥宮(甲府市の金桜神社は里宮)へ登山した行者だといわれているが、これを裏付ける資料はないが、甲州水晶の産地は金峰山を中心とする一帯地域で、金峰山には各所に露出した水晶が見られたであろうと文献に記述されている。
『甲斐国志』には、水晶は水精とあり、要するに書く水晶産地の山岳地帯を源流とする各河川の流水の流水が、あたかも清くすんだ透明の水晶からにじみ出た水の精のようであったことから「水精」としたものと思われる。
天正年間の織豊時代は、水晶採掘の制限はなかったと思われるので、自由に採掘しそのままきれいな石として珍重されたものといわれている。水晶の採掘が禁止されたのははっきりしないが、『銀山旧記』によれば、戦国時代には金銀の鉱山をめぐり豪族間に猛烈な争奪戦が行われたので、秀吉がこれを防ぐために鉱山奉行をおいて各地の鉱山を治め、財力をたくわえ、金張りの秀吉といわれるようになった。天下を掌握した家康もこれにならって金山奉行を設け、各地方の主要鉱山を直轄地としたことは有名である。
徳川家の金山奉行の大久保長安は、もともと武田家に仕え、武田家の財力に金山の採掘を開発して天下の武田と名を挙げたのも、大久保長安の鉱山技術であったからである。信玄によって開発された早川入りの保や、黒川千軒とうたわれた黒川金山(塩山市旧神金村)は有名であるが、黒川金山は真っ先に幕府直轄となって管理され、すべての山が幕府の方針によって、採掘や使用は一切禁止されたのである。
災害や自然崩落等により露出した水晶鉱石は幕府に届け出て後に払い下げられたようであるが、金峰山で発見された水晶が、これが最初であるという。 金桜神社の宮司のお話によると、金峰山の山頂に奥宮があり、医薬、禁厭(災難よけ)の守護神として、すくなひこのみこと少彦名命が鎮座され(二千年前)本宮となし、千五百年前に金峰山より御祭神を御岳に遷祀して里宮とし、数千年前より日本国中にその名を知られ、里宮から置く宮へと山岳信仰の盛んな江戸時代には特に行者の登山が多く、金峰山の水晶は、行者によって発見されたことは前述のとおりである。
金桜神社の社宝、火の玉・水の玉は有名である。「火の玉」は径一寸三分、径一寸の茶色透明の二個で、「水の玉」は径一寸強、径一寸、径五分の白色透明の三個で、あわせて五個の銘玉であるが、拝見させて頂けなかった。この玉は京都の玉造りに加工させたという。年代はつまびらかでない。
金桜神社から清川筋へ出る左折れの小さな峠の下り道がある。三十五年ほど前は土道で、水晶の破片が所せましと敷き詰めたように散乱していたのを思い出したが、今は全面舗装となってその面影はなかった。甲府方面へ水晶を搬出した主幹道であったと思われる。
甲府市黒平町上黒平の長老を訪ね、水晶の話を聞くことができた。その人は水晶研究科の藤原育弥さん(八十二歳)で明治時代より亡父が水晶原石の採掘を専業としており、大正時代に入り、父子で採掘の仕事をしていたという。「御岳千軒」という昔からの言い伝えについて藤原さんは、金峰山は古くより日本の三代御獄信仰霊場であり、多くの信者の登山があった。一五七八年(天正六年)金峰山から水晶が発見され、採掘工、加工職人、運搬人、それらを商う商人と人の交流が盛んになるにしたがい、日用品販売の商店、食堂、旅館、土産品店が軒を並べ、往来は盛大を極め、一時御岳町の沢沿いに千軒くらいの集落があったといわれているという。
黒平の水晶抗は、藤原さんの家の正面で南の山、県有林にある向山抗は、前述した鉱山を目前に見ることが出来た。しかし歩くと二時間はかかるという。明治四十年まで盛んに採掘されていたが、明治四十年前後の台風、水害による崩壊がいちじるしく採掘中止の状態となった。それ以後は先代とぼつぼつ、昭和二十年の終戦まで掘っていたが閉山したという。
向山抗(甲府市黒平町)の水晶の原石は、長さ三尺(約九〇センチ)のものが最大というが、これについては面白い話をきくことができた。採掘方法はたて穴式で、大穴方式といい、井戸彫りのように約一〇〇尺(約三〇メートル)もたてに掘り下げるため、鉱山を引き上げるのに村民が総出動して作業に従事したので別名村堀りといっていたそうである。
そのために三尺(約九〇センチ)以上の原石は危険なために穴の中に残して置いたそうである。採掘すると大きな原石のみがごろごろしているというのである。そこは今、水源凾養のため山地の崩壊の危険により手はつけられないままであるという。

2023.01.05

山梨の水晶産地

 山梨の水晶産地
甲斐の水晶といえば、連想されるのが金峰山であろう。山梨の水晶産地は主に金峰山を中心とする関東山地と証する地域に集中している。甲府市北部から遠く武・信・上の三州にわたる広大な地域を占め、その最高点は金峰山(二五九五メートル)で朝日岳、甲武信岳等の二五〇〇メートル以上の高峰によって信・武と境をなし、笠取山から南走して甲府盆地の塩山に終わる支脈で国師岳から南西走して甲府市に終わる支脈。この間の谷間は笛吹川、金峰山より南西走するものは、茅ヶ岳とその裾野の竜王で終わる。この脈間に荒川を画し、御岳昇仙峡の絶景をつくり、花崗岩風景をあらわ露す。
金峰山より主脈は西走して横尾山に至り、一支脈の西南に派出するものがある。前支脈との間に塩川を涵養する。このように金峰山を中心にして集中しているのであり中でも甲府市黒平の向山坑から東山梨郡牧丘町の倉沢抗(乙女鉱山)、須玉町比志の押し出し抗は古くから透明良質の水晶を多く産出している。
金峰山麓での水晶の発見は天正三年(一五七五)で、今より約四百年前のことで、ちょうど武田勝頼が三河の設楽原(しだらがはら)で織田、徳川の連合軍に大敗した年であり、武田家滅亡の第一歩を踏み出したいわゆる長篠の戦いのあった年である。
伝承によれば水晶を発見したのは険しい山道を金峰山奥宮(甲府市の金桜神社は里宮)へ登山した行者だといわれているが、これを裏付ける資料はないが、甲州水晶の産地は金峰山を中心とする一帯地域で、金峰山には各所に露出した水晶が見られたであろうと文献に記述されている。
『甲斐国志』には、水晶は水精とあり、要するに書く水晶産地の山岳地帯を源流とする各河川の流水の流水が、あたかも清くすんだ透明の水晶からにじみ出た水の精のようであったことから「水精」としたものと思われる。
天正年間の織豊時代は、水晶採掘の制限はなかったと思われるので、自由に採掘しそのままきれいな石として珍重されたものといわれている。水晶の採掘が禁止されたのははっきりしないが、『銀山旧記』によれば、戦国時代には金銀の鉱山をめぐり豪族間に猛烈な争奪戦が行われたので、秀吉がこれを防ぐために鉱山奉行をおいて各地の鉱山を治め、財力をたくわえ、金張りの秀吉といわれるようになった。天下を掌握した家康もこれにならって金山奉行を設け、各地方の主要鉱山を直轄地としたことは有名である。
徳川家の金山奉行の大久保長安は、もともと武田家に仕え、武田家の財力に金山の採掘を開発して天下の武田と名を挙げたのも、大久保長安の鉱山技術であったからである。信玄によって開発された早川入りの保や、黒川千軒とうたわれた黒川金山(塩山市旧神金村)は有名であるが、黒川金山は真っ先に幕府直轄となって管理され、すべての山が幕府の方針によって、採掘や使用は一切禁止されたのである。
災害や自然崩落等により露出した水晶鉱石は幕府に届け出て後に払い下げられたようであるが、金峰山で発見された水晶が、これが最初であるという。 金桜神社の宮司のお話によると、金峰山の山頂に奥宮があり、医薬、禁厭(災難よけ)の守護神として、すくなひこのみこと少彦名命が鎮座され(二千年前)本宮となし、千五百年前に金峰山より御祭神を御岳に遷祀して里宮とし、数千年前より日本国中にその名を知られ、里宮から置く宮へと山岳信仰の盛んな江戸時代には特に行者の登山が多く、金峰山の水晶は、行者によって発見されたことは前述のとおりである。
金桜神社の社宝、火の玉・水の玉は有名である。「火の玉」は径一寸三分、径一寸の茶色透明の二個で、「水の玉」は径一寸強、径一寸、径五分の白色透明の三個で、あわせて五個の銘玉であるが、拝見させて頂けなかった。この玉は京都の玉造りに加工させたという。年代はつまびらかでない。
金桜神社から清川筋へ出る左折れの小さな峠の下り道がある。三十五年ほど前は土道で、水晶の破片が所せましと敷き詰めたように散乱していたのを思い出したが、今は全面舗装となってその面影はなかった。甲府方面へ水晶を搬出した主幹道であったと思われる。
甲府市黒平町上黒平の長老を訪ね、水晶の話を聞くことができた。その人は水晶研究科の藤原育弥さん(八十二歳)で明治時代より亡父が水晶原石の採掘を専業としており、大正時代に入り、父子で採掘の仕事をしていたという。「御岳千軒」という昔からの言い伝えについて藤原さんは、金峰山は古くより日本の三代御獄信仰霊場であり、多くの信者の登山があった。一五七八年(天正六年)金峰山から水晶が発見され、採掘工、加工職人、運搬人、それらを商う商人と人の交流が盛んになるにしたがい、日用品販売の商店、食堂、旅館、土産品店が軒を並べ、往来は盛大を極め、一時御岳町の沢沿いに千軒くらいの集落があったといわれているという。
黒平の水晶抗は、藤原さんの家の正面で南の山、県有林にある向山抗は、前述した鉱山を目前に見ることが出来た。しかし歩くと二時間はかかるという。明治四十年まで盛んに採掘されていたが、明治四十年前後の台風、水害による崩壊がいちじるしく採掘中止の状態となった。それ以後は先代とぼつぼつ、昭和二十年の終戦まで掘っていたが閉山したという。
向山抗(甲府市黒平町)の水晶の原石は、長さ三尺(約九〇センチ)のものが最大というが、これについては面白い話をきくことができた。採掘方法はたて穴式で、大穴方式といい、井戸彫りのように約一〇〇尺(約三〇メートル)もたてに掘り下げるため、鉱山を引き上げるのに村民が総出動して作業に従事したので別名村堀りといっていたそうである。
そのために三尺(約九〇センチ)以上の原石は危険なために穴の中に残して置いたそうである。採掘すると大きな原石のみがごろごろしているというのである。そこは今、水源凾養のため山地の崩壊の危険により手はつけられないままであるという。

2022.09.29

10月1日は印章の日

 

我々が、制度の下に商いをさせて頂いている「印章の始まり」もこの頃であります。
大宝律令が発布(701)されて、印章は歴史の表舞台に登場します。
律令の中の公式令で印制が決められ、702年から諸国印が順次造られ、各國へ配布されます。
印制どおりの印影は702年以降のものが、「天皇御璽」をはじめ、正倉院に多く保管されています。
伝来の爾以来、今までに皆無であった印章が、急に歴史の表舞台に現れたということは、制度の浸透には、印章が欠かすことのできない存在となったことを示す重要なもの・・・藤原宮を支え、奈良時代を支えた旗竿になったことは、確かな事であると推察します。
その後の歴史において、やはり制度のなかで育まれた印章は、徐々に私印が表れ、私たちの暮らしの中に浸透して行きました。
明治には、書判という花押を廃して、印章を重んじる現在の印鑑登録制度が出来上がりました。
そして登録印鑑のみならず、印章の重要性や利便性は、我が国にとって大変重要な位置を占めるようになりました。
ところが、現在それを非合理的?として敵視する勢力が存在することは、確か

象牙一つをとっても、我々印章業者が自然破壊の先駆者であるような圧力宣伝をされたり、自然材を大切に扱ってきた職人の想いとは裏腹な、印材・・・自然破壊というなら、マイクロプラッチックの温床になるような樹脂印材のことは、何も物申さないで、ただただ象牙材を攻撃される。
嘗てより、日本の職人は、自然の材料に感謝の念を持ち、それを大切に加工してきたという歴史があります。
大量生産と大量消費の繰り返しではなく、自然と相談しながら、自然材と上手くお付き合いをして、モノを大切にするという習慣が根付いています。
人形浄瑠璃に使われるクジラの髭などは、その代表格といってもよいのではないでしょうか。
官印制度確立より1300年以上たっている今日、内よりの崩壊を願うのではなく、何よりもその有難味を感じて頂きたいと感じる次第です。

2022.09.20

印章の彫刻様式

 印章の彫刻様式
わが国の印章彫刻様式は、安土・桃山時代(天正五年~十四年・一五七七~一五八六)の約四百年前ポルトガル人が渡来し、鉄砲といっしょに印章篆刻技術も渡ってきたというのが定説である。
織田信長は全国より、版木職人、菓子形彫刻職人や印判職人など百人を京都に集め、ポルトガル人の講師の下に一ヵ年間の講習の結果、特別優秀な者三名を選び、これにさいじ細字の姓を与え、帯刀を許したのがわが国印章師の最も古い発祥であるという。
細字家は襲名で代々左平を名乗り初代は尾張の生まれであった前田利家と同郷だったので、利家が加賀藩主として天正十一年(一五八三)六月十四日に金沢城へ入城し、五年後の天正十六年(一五八七)三月左平は御用印判師として召し抱えられ、尾張町の現住所を賜り、現在の同地において印章店を経営する細字氏(金沢市尾張町二ノ九ノ二十二)白鶴堂がその十一代目である。
初代細字左平は京都で、四ヵ月を費やして、タガネで「つくばい」を彫刻した。それを前田利家に献上し、時代を経て水戸光圀が京都の龍安寺の中庭にすえられてある「つくばい」は、平面二尺五寸(約七五センチ)、高さ一尺五寸(約四五センチ)の丸形石材に楷書で、「吾唯足知」の四字を篆刻しているのが有名である。
中国の印章は角印であるが、西洋の印章は丸形と小判型である。わが国では両方の形を使用するようになり、この時代より角印、丸印、小判型と三種型になったのである。この時代は一般人には公印のみであったが、堺の商人にはハンコの使用が許されていたという。御朱印船の印は堺の商人が貿易の許可として使用していたものである。
江戸時代に徳川家康は、一般庶民にハンコの使用を布告している。これは「公禁令」であるが、実際には町民や百姓はハンコの使用は必要としなかったのである。一般には筆軸印(筆の軸に朱肉をつけて押す)などですませていたのであるが、元和年間(一六一五~二四)頃に社会経済の発展に伴い、百姓町人階級にも印章が流行するようになり、取引の証明と確認の意味において使用されるようになった。これが実印の始まりといわれている。しかし実際には名主、大家どまりで、訴訟などの場合も、名主、大家が羽織をつけてハンコの捺印をすることでことたりたといわれている。
江戸時代のハンコに対する川柳に、
○またハンコ大家しぶしぶ羽織を着
役所へ出向きハンコを押すときは必ず羽織をつけて立ち会ったのである。
○ハンコ屋は袴のうしろに質におき
格式の高い職業であった。前だけは袴をつけたように見せかけて判を彫っていた様子をうかがうことができる。
○ハンコ屋は刻ってやるぞと金を取り
○まんじゅうをもらって一判、倉がとび
ハンコは大切なものである。まんじゅう一つ頂いて、補償に押捺したばかりに倉を取られたのであろう。
古代より印章を押捺することは重大なことであった。印章の歴史を知り印章を大切にすることは自己の人格と信用を高めることになるのである。

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